地震

2011年03月12日

地震の夜から次の日

 何度か大きな余震が続きました。山形でさえこれだから、太平洋側の人たちの恐怖は計りしれません。大きな津波のあとで取り残された人、救助を待つ人、情報が無い中で真っ暗な夜は過ぎて行きました。
 ぽん吉兄ちゃんの熱は一向に下がらず。ちょっとでも母ちゃんが離れると、「お母さん、こっちにきて・・・。」地震も重なってなかなか落ち着けないようです。おじいちゃん、おばあちゃんはろうそくの火の見張り番をしてくれました。ラジオから流れる情報で目がさえます。眠れません。
 2時過ぎに父ちゃんが来ました。家の張り紙を見てくれたようです。かなり安心しました。電話はもちろん、携帯電話、携帯メール、携帯からのネット接続、すべて繋がらりませんでした。もしかして?と公衆電話に行きましたが、山形市は伝言サービスは対象外でした。

 日中になって、ぽん吉君達をお願いしてから自転車で自宅へ荷物を取りに帰りました。ガスボンベとか色々持って帰宅。途中で会社に寄って、父ちゃんの薬を届けました。帰って来てもぽん吉君はお熱。もしかして肺炎になってしまったのか!?とドキリ。24時間経っても高熱のままなので、夜間休日診療所へ行くと、真っ暗。やっていません。断られてしまうかもと恐る恐る済生館病院へ。ここは非常用電源が動いていたようで、診療も普通に対応してくださいました。結果はインフルエンザ。検査終了の印が出る前にくっきりと陽性の印が出てきました。ということはチビちゃんずも時間の問題です。
 ぽん吉君を抱えてえっちらおっちら、真っ暗な駐車場へ行き乗車。恐る恐る進んでいると、突然明るくなりました。山形の停電は夕方から夜にかけて解消したようです。

 電気は通ったのですが、これから確実にインフルエンザの患者が我が家で出てくるので、しばらく実家へお世話になることにしました。

kyo_ponkichi at 16:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年03月11日

東日本大震災、そのとき

 この度の震災で被害にあわれた方にはお見舞いを申し上げます。
また、亡くなられた方の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

 3月11日。幼稚園では卒園さよならパーティー。ぽん吉兄ちゃんの昨夜の熱はすっかり下がって元気だったので登園。美味しい御馳走と、先生方の心のこもったスープ。とっても楽しんできたようです。帰って来て、早速皆でお土産にもらってきたクッキーを食べていたとき、何だか揺れてきました。ん?と思っているうちにどんどん揺れは大きく。そのままテーブルの下に滑り込ませ、3人を抱きながら揺れに耐えていました。あまりにも長い揺れに思わず「怖い」と言ってしまいました。廊下からは緊急地震速報の警報が。揺れが収まってから急いでテレビをつけると震源は宮城県沖。ああ、日本が終わってしまった。と思いました。どんなに宮城が揺れても、山形市はびっくりするほど揺れない地域なのです。山形がこれだったら仙台は・・・太平洋側は・・・。と思う前に停電。ぽん子ちゃんは怯えて母ちゃんの足から離れません。
 停電ではストーブがつけられません。そういえば、父ちゃんの実家には電気要らずの灯油ストーブがあった!行くべきか残るべきか悩みつつ、家を掃除して保温釜に残っていたご飯をおにぎりにして握り、3個をテーブルに。父ちゃんはきっと今日中には帰って来ないだろうけど、お腹をすかせて帰ってくるだろうからね。と、急いで準備をして暗くなる前に家を出発。玄関の外には「○○町(実家)に行きます。」と伝言。

 帰宅の時間にもぶつかり、道路は大渋滞。大きな交差点では警察の方が手旗信号で車を誘導してくださっていました。ありがとうございます。その他の交差点では自然と譲り合いと安全な減速。それでも通常の倍以上の1時間かけて何とか到着。行く途中で車のテレビから流れてくる悲惨な映像。知っている場所ばかりなはずですが、あまりにも現実離れして、最後まで信じることができませんでした。

 夜は持っていったおにぎりと、おばあちゃんが作っていたおかずで意外と豪華なご飯を頂きました。その後、ぽん吉君が再び発熱。夜はリビングに布団を持ち込んで寝ましたが、夜中じゅう体の辛さを訴えてきたぽん吉君。なかなか熱が下がりません。判断を間違って自宅にとどまっていたら、とても大変なことでした。(次の日、インフルエンザと診断されました。)

 山形の自宅も実家も停電以外は何の被害も無く済みました。電話もネットも繋がらず、誰にも連絡が取れずにヤキモキでした。それでも皆の無事を信じていました。


kyo_ponkichi at 16:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)